Scene 1 会議室の白い光
会議室の蛍光灯は、いつも少しだけ白すぎる。
ミナはノートパソコンの画面を、会議テーブルの中央に向けた。画面には、来月の採用イベント用に作ったバナーが表示されている。
明るい黄色の背景。
赤い丸の中に「未経験歓迎」。
大きな見出しには「職場見学会 開催!」。
右下には「応募はこちら」のボタン。
端には、会社のロゴと開催日。
昨日の夜、ミナはこのバナーを二時間かけて作った。
最初はシンプルすぎる気がして、色を足した。
目立たない気がして、見出しを大きくした。
少し寂しい気がして、写真も入れた。
上司が「採用は明るい感じがいい」と言っていたから、全体を元気な雰囲気にした。
自分なりには、かなり頑張ったつもりだった。
「どうでしょうか」
ミナは、なるべく明るい声で言った。
向かいに座っていたマドカが、腕を組んだまま画面を見つめる。悪い人ではない。いつも忙しくて、言葉を選ぶ余裕が少し足りないだけだと、ミナは知っている。
マドカは首をかしげた。
「うーん……悪くないんだけどね」
その言葉のあとに続くものを、ミナはもう知っていた。
「なんか、ちょっとダサいかも」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
でも、ミナは笑った。
「ですよね。もう少し直してみます」
「ごめんね、ふわっとしてて。なんて言えばいいんだろう。もうちょっと、いい感じにできる?」
いい感じ。
その言葉は、何度聞いてもつかめない。
ミナはうなずきながら、パソコンを閉じた。
「はい。やってみます」
本当は聞きたかった。
どこがダサいんですか。
何を変えればいいですか。
色ですか。文字ですか。写真ですか。
それとも、全部ですか。
けれど、喉の奥まで来た言葉は、そのまま戻っていった。
作ったものを見せる瞬間が、ミナは苦手だった。
評価されるのが怖いというより、何を直せばいいのかわからないまま笑う自分が、少し嫌だった。
Scene 2 全部を直したら、もっとわからなくなった
自席に戻ると、メールの通知が三件、チャットの通知が五件、画面の右上に並んでいた。
ミナはそれを閉じて、もう一度バナーを開いた。
まず、見出しを大きくした。
「職場見学会 開催!」の文字が、画面の半分近くを占める。
次に、応募ボタンを赤にした。
もっと目立つように、ボタンの周りに影もつけた。
「未経験歓迎」の丸も大きくした。
開催日は見落とされると困るから、太字にした。
会社のロゴも小さい気がして、少し大きくした。
気づけば、画面の中のすべてが、さっきより強くなっていた。
なのに、良くなった気がしない。
むしろ、見ているだけで少し疲れる。
ミナは、背もたれに体を預けた。
「なんで……」
小さくつぶやいた声は、空調の音に混ざって消えた。
スマホを手に取り、検索窓に打ち込む。
デザイン 初心者 何から
バナー なんかダサい
Canva 素人っぽい 直し方
検索結果はたくさん出てくる。
配色、余白、フォント、ジャンプ率、視線誘導、トンマナ。
聞いたことがある言葉も、ない言葉も並んでいた。
でも、今のミナには、それらがバラバラの道具に見えた。
配色を直せばいいのか。
余白を増やせばいいのか。
フォントを変えればいいのか。
それとも、そもそも写真が悪いのか。
どれを先に見ればいいのかわからない。
時計を見ると、もう定時を一時間過ぎていた。
ミナは修正途中のバナーを保存し、パソコンを閉じた。
画面が暗くなる直前、赤い応募ボタンだけが、やけに強く目に残った。
Scene 3 雨の帰り道
会社を出ると、雨が降っていた。
折りたたみ傘を開くほどではないけれど、歩いていると髪の表面が少しずつ湿っていく。駅までの道は、いつもより長く感じた。
ミナはショーウィンドウに映る自分を見た。
肩にかけたバッグ。少し疲れた顔。
スマホの画面には、まだ検索結果が残っている。
「センスがないのかな」
言ってから、しまったと思った。
この言葉を口にすると、本当にそうなってしまう気がする。
学生の頃、ミナはノートをきれいにまとめるのが好きだった。手紙を書くのも、雑貨屋で小さなカードを選ぶのも好きだった。
好きだったはずなのに、仕事になった途端、作ることは怖いものになった。
見せる。
直される。
何が悪いかわからない。
でも、笑って受け取る。
その繰り返しが、少しずつ「好き」を小さくしていく。
駅へ向かう角を曲がろうとしたとき、路地の奥に小さな灯りが見えた。
古いビルの二階。
外階段の下に、控えめな看板が出ている。
余白灯舎
夜だけ開いています
ミナは立ち止まった。
デザイン室。
その言葉だけで、なぜか足が動かなかった。
怪しいかもしれない。
予約が必要かもしれない。
そもそも、自分みたいな初心者が入る場所ではないかもしれない。
そう思いながらも、看板の下に書かれた小さな一文を読んだ。
失敗したものを、持ってきてください。
ミナは、バッグの中のノートパソコンを見下ろした。
失敗したもの。
それなら、今の自分は持っている。
Scene 4 余白灯舎
階段を上がると、木の扉があった。
ドアノブの横には、小さな紙が貼ってある。
うまくできたものより、
うまくいかなかったものの方が、
見るところはたくさんあります。
ミナは、その紙を何度も読んだ。
それから、軽くノックした。
「どうぞ」
中から聞こえた声は、静かだった。
扉を開けると、ほんのり紙とコーヒーの匂いがした。
大きな作業机。壁に貼られたラフ。色見本帳。小さなホワイトボード。窓辺には、雨に濡れた夜の街が見える。
そして作業机の上には、古いスタンドライトが置かれていた。
「こんばんは」
奥から出てきた人が、ゆっくり頭を下げた。
「ここ、初めてですよね」
「あ、はい。すみません。看板を見て……」
「すみませんはいらないですよ。ここは、何かを直したい人が来る場所なので」
その人は、白瀬アキラと名乗った。
ミナはバッグの持ち手を握りしめたまま、少し迷った。
「私、デザイナーとかではないんです。会社で、たまたまバナーを作ることになって。でも、今日……」
言いかけて、止まる。
アキラは急かさなかった。
その沈黙が、ミナには少しありがたかった。
「なんかダサいって、言われて」
口に出した途端、思っていたより傷ついていたことに気づいた。
「それで、直そうとしたんですけど、何を直せばいいのかわからなくて。全部大きくしたら、もっと変になって」
「見せてもらってもいいですか」
ミナは一瞬、ためらった。
作ったものを見せる瞬間は、やっぱり怖い。
けれど、アキラの声には、急いで評価しようとする感じがなかった。
ミナはノートパソコンを開き、バナーを表示した。
アキラは画面を見た。
何も言わない。
その沈黙が長く感じられて、ミナは思わず言葉を足した。
「あの、やっぱり変ですよね。色も多いし、文字も大きいし。でも何を消したらいいか……」
「ミナさん」
名前を呼ばれて、ミナは口を閉じた。
アキラは、バナーではなくミナを見た。
「まず、これは失敗作ではないです」
「え」
「伝えたいことを、全部大事にしようとした跡があります。だから苦しくなっているだけです」
苦しくなっている。
その言い方が、なぜかしっくりきた。
アキラは作業机の上の古いスタンドライトに手を伸ばした。
「少し、見方を変えてみましょうか」
スイッチを入れると、柔らかい黄色の光が机の上に落ちた。
その瞬間、画面の中のバナーが、ほんの少しだけ揺れたように見えた。
ミナは目を瞬かせた。
「今……」
「見えました?」
アキラは少しだけ笑った。
「このライトは、正解を教えてくれるものではありません。ただ、見えにくいものを少し照らすだけです」
画面の中で、文字や色がざわざわしていた。
「職場見学会 開催!」が前に出ようとする。
「未経験歓迎」の赤い丸も負けないように膨らむ。
応募ボタンは、右下から強く光っている。
開催日は細かい文字のまま、でも必死に存在を主張している。
会社のロゴも、端で小さく手を上げている。
全部が、こっちを見てと言っていた。
だから、どこを見ればいいのかわからなかった。
そのとき、ライトの影の中から、女の子のような声がした。
「声が多い」
ミナは肩を跳ねさせた。
机の端、スタンドライトの光が届くところに、小さな人影のようなものが立っていた。
髪は灯りの色を少し含んで、輪郭は紙の影みたいに淡い。
「え、誰……?」
アキラは特に驚いていなかった。
「トウカです。たまに、余計なことを言います」
「余計じゃない」
トウカは淡々と言った。
「このバナー、みんな同時に話している。だから、読む人が座る場所がない」
読む人が座る場所。
ミナは画面を見つめた。
たしかに、自分はずっと会社側の都合を入れていた。
見学会を知らせたい。
未経験歓迎も伝えたい。
応募もしてほしい。
日程も大事。
会社名も入れないといけない。
全部、大事だった。
だから全部、目立たせようとした。
「ミナさん」
アキラが、紙のメモを一枚差し出した。
そこには、三つだけ線が引かれている。
- 誰に
- 何を
- 最初に何を見せるか
「デザインを直すとき、最初に見るのは色でもフォントでもありません」
アキラはバナーの中央を指差した。
「まず、誰に何を伝えたいのか。そして、その人に最初に何を見せたいのかです」
ミナは、画面の中の大きな見出しを見た。
職場見学会。
未経験歓迎。
応募はこちら。
開催日。
会社名。
どれも必要だけれど、最初に見せたいものはひとつだけかもしれない。
「最初に……」
ミナはゆっくり言った。
「たぶん、未経験でも見学に来ていいんだって、安心してほしいです」
アキラはうなずいた。
「それなら、このバナーの主役は『イベントを開催します』よりも、『未経験でも見に来ていい場所です』かもしれませんね」
ミナは、少しだけ息を吸った。
何かが急に上手くなったわけではない。
バナーが完成したわけでもない。
それでも、さっきまで全部が同じ大きさで迫ってきた画面に、一本だけ細い道が見えた気がした。
「センスがないんじゃないよ」
アキラが言った。
「まだ、見る順番を知らないだけ」
ミナは、その言葉を心の中で繰り返した。
見る順番。
デザインは、好きか嫌いかだけで決まるものだと思っていた。
おしゃれな人が、感覚で作るものだと思っていた。
だから自分には向いていないのかもしれないと思っていた。
でも、もし順番があるなら。
学べるのかもしれない。
Scene 5 帰り道のメモ
雨は、いつの間にか弱くなっていた。
ミナはデザイン室を出る前に、アキラから小さな付箋をもらった。
そこには、さっきの三つの問いが書かれている。
- 誰に届ける?
- 何を伝える?
- 最初に何を見せる?
「今日は、ここまでで大丈夫です」
アキラはそう言った。
「え、直し方までは……?」
「直す前に、見る順番を決めましょう。そこを飛ばすと、また全部を大きくしたくなります」
ミナは苦笑した。
「それ、今日やりました」
「みんなやります」
その言い方があまりに自然で、ミナは少しだけ笑った。
帰り際、トウカがライトのそばでつぶやいた。
「余白は、空いている場所じゃない」
ミナは振り返る。
「じゃあ、何?」
トウカは、すぐには答えなかった。
ただ、ライトの光が少し揺れた。
「読む人が、迷わず息をする場所」
その言葉の意味は、まだ全部はわからない。
でも、ミナはスマホのメモアプリを開いて、忘れないように打ち込んだ。
余白は、読む人が息をする場所。
駅に向かう道で、ミナはもう一度、自分のバナーを開いた。
やっぱり、まだ少しダサい。
でも、さっきとは違って見えた。
直せないものではなく、これから見ていけるものに見えた。
画面の中で、赤いボタンが相変わらず強く光っている。
でもミナは、すぐにはそこを触らなかった。
まず、誰に届けるのか。
何を伝えるのか。
最初に何を見せるのか。
明日、会社に着いたら、そこから考えてみよう。
ミナは傘を閉じた。
雨上がりの道に、街灯の光が細く伸びていた。
解説で深める
この話では、ミナが「なんかダサい」と言われた理由を、まだ完全には説明していません。
物語の中で見えたのは、デザインを直す前に必要な最初の視点です。
次は、解説記事で具体的に深めていきます。
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デザイン初心者は何から学ぶ?最初に見るべき5つの基本
ツールやセンスより先に見るべき「目的・優先順位・余白・配色・文字」を整理します。 -
デザイン初心者ロードマップ|30日で1枚を8回見直す この夜に受け取った三つの問いを、一枚の制作物を完成させる行動計画へつなげます。
次回予告
第2話 直したのに、よくならない
次の制作物で、ミナは指摘された場所を一つずつ直していく。 けれど、タイトルを大きくすると写真が弱くなり、写真を大きくすると日付が窮屈になる。
「直しているのに、どうして終わらないんだろう」
部分だけを見続けるミナに、アキラは紙を腕一本分だけ遠ざけるように言う。 文字が読めなくなった距離で、初めて全体の傾きが見えてくる。
1カ所は直っている。 でも、紙は1枚だ。
